拓心武道の礼法について〜礼論  /拓心武道哲学

【極真式の礼法】

 極真空手には極真式の礼法として、座礼、そして立礼としての十字礼がある。その特徴を簡単に述べれば、日本における礼は開手で行われるが極真式は閉手(拳)で行われる点だ。また十字礼は胸の前あたりで両腕を一旦十字にし、その腕を下におろす形となっている。

 私は極真会館の創設者、故大山倍達総裁の制定した形式を残すというのが基本であると考えている。しかしながら、極真会館においても、黎明期には十字礼は制定されていなかった。現在は、十字礼が基本となっている。だが、私の道場では、十字礼を道場内の作法としてのみ保存し、公(おおやけ)の場、すなわち道場生以外の観客に見せる試合などでは、日本の一般的な礼を実践している。

【日本の一般的な礼】

 日本の一般的な礼とは開手で気をつけの姿勢から屈体をする礼である。私の道場では、それを「立礼」とし、極真式の礼を「十字礼」として、それらを区別している。私見では、礼を含めた礼法は、我が国においても多様である。何かの本で読んだ記憶があるが、徳川時代の草創期、3代目将軍、家光あたりが、正座も含め、殿中における公(おおやけ)の礼法を定めっていったらしい。その際、基盤となったのが小笠原式礼法である。その事実は、礼法に絶対の正しさがあるわけではないということである。勿論、いうまでもないが、小笠原礼法の体系に優れた意味づけ、理合が存在したからこそ、家光は採用したのであろう。家光の慧眼は、その後の300年の徳川幕府の継承の礎をなしたと、私は考えている。補足すれば、ここでいう「公」というのは、現代における、社会全般のことではなく、徳川の支配体制内のことである。以上の見方をすれば、極真式の礼も極真会館内の礼としては、それも容認できるし、意義も理解できる。

 

【私の考え】

 だが、私の考えでは、礼に関しては、極真空手も柔道や剣道、他の日本武道と同じく、我が国の心を表す形式で行った方が良いと考えている。補足を加えれば、社会全般の中で、共通した形式、また通用する形式で行う方が良いと考えている。そのように考えれば、立礼は、十字礼ではなく、開手における屈体による立礼の方が良いと考えている。もちろん、極真会館の創設者、大山倍達先生が制定した礼法は残さなければならないと思っている。私の道場では極真会館で制定された礼法は、極真式礼法(伝統礼法)とし、私の道場の礼法は、拓心武道修練法の一環として、極真式礼法における十字例を道場内のみとした。その上で、公(おおやけ)の場では、立礼(IBMA極真会館式)と拝礼を行うこととした。ちなみに、気をつけの姿勢から手を開き(開手)30度の屈体を立礼、柔道方式のように、両手のひらを前腿に添えて滑らせるように、45度の屈体を行うものを拝礼とした。座礼も拳を握った(閉手)の座礼を極真式座礼とし、開手で行い、屈体を深々と行う方式を拝座礼とした。

 そのようにすることで、空手道修練を行う子供たちのみならず全ての道場生が、広く一般社会で礼を表す際、その磨き上げられた様式美と心を表現することとなる(特に日本社会ではあるが)。と同時にその形と心を認めてもらえる。それは理想の姿だが、その理想を目指さなくては、永遠に進歩はないだろう。

 補足を加えれば、礼法をことさら大げさに考えて、権威化の手段としてはならない。そう言えば、私のイメージしていることがわからない人もいるかと思う。端的に言えば、礼法の本質を忘れ、その形式を守ることを絶対視してはならないということである。「手段の目的化」、そのような例は、枚挙にいとまがない。

【日本の礼法の本質〜不自由の中から自由を得る(真に知る)方法】

 「心を高め、人生を拓くという」スローガンを掲げる拓心武道修練法は、不自由の中から自由を得る(真に知る)ことを目指す方法である。ゆえに、絶えず本質を考える。

 そう考えると、私は日本の礼法の本質は、自他の間合いを意識し、自他の呼吸を感じ取ること。そのことは、自己の確立と同時に他者の尊重と言っても良い。さらに百尺竿頭に一歩を進めるが如く考えれば、畢竟「自他の一体化」だと、私は考えている。それは、我が武道哲学と同根のものである。

 補足を加えれば、自他一体といっても、それは自他を分けている。しかしながら、「一体を意識しながら分ける」こと、また「分けることを意識しながら一体となる」ことが重要だと、私は考える。換言すれば、「自我を抑制し、他者に相対する」それが、一体化の極意である。私が観る、日本の礼法の本質とはそのような意識である。だが、現実は自己の確立、他者の尊重といっても、自我への囚われ、そして他者との差別意識であろう。差別と似た言葉に区別という言葉があるが、その意味は似て非なるものである。この辺に関して述べるのは機会を待ちたい。

【私の道場の立礼は】

 さて、私の道場では、礼の基本を立礼としている。ただし立礼とは、背骨を丸めず、正確に屈体(お辞儀)をすることが大事である。また、ゆっくりとした呼吸で行う。さらに相対の稽古(組手型や組手稽古など)時、互いに礼を行う場合、相手と呼吸を合わせることが肝要だ。そこから稽古が始まる。そのよう身体動作が言葉よりも雄弁に相手に対する敬意を表すのである。ゆえに、IBMA極真会館増田道場では、「押忍、お願いします」という声を出して挨拶をするより、所作、すなわち身体動作をより重要な事柄として優先する。言葉は嘘を内包する。それが私の直感である。ゆえに身体動作や身体反応を見なければならない。というのが私の人生修行からの直感である。ただし、身体動作や身体反応も然りである。なぜなら、我々人間の身体反応には、文化的、社会的に形成された、プロトコルを基盤とした体験により形成された癖が内包されているからだ。ゆえに、プロトコルを俯瞰し、癖を内包した、自己の身体を一旦解体して作り直す。そのことによって、新しい自己を、そして、より良い自己を作り上げていく。また、そのことが拓心武道修練法と増田武道哲学の究極的に目指すところである。

先師への拝礼と道場内の極真式礼